今や誰でも知るところとなった“令和”の由来の「万葉集」。
書店に行くと関連本が平積みされていますね。
学生時代にみなさん勉強しているはずですが・・・覚えていますか?
今月は「万葉集」をテーマにお送りいたします。
「万葉集」とは
飛鳥朝から奈良朝まで5世紀前半から8世紀半ばまでのおよそ300年間に詠われた日本の歌の総結集です。
全20巻、歌数4516首もあり、その作者は天皇、皇族から庶民まで広汎にわたることが特徴です。
“和歌の前では身分は問わない“というこの姿勢は世界的にみても特異なもので、何より、インターネットもない
時代に、300年もの長い期間、 身分を問わず多くの人の歌を集め続けた人たちがいたことがすごいですよね。
時代背景も、大化の改新、壬申の乱、律令制定、藤原京・平城京への遷都、遣唐使、大仏建立などなど、
めまぐるしい 変化を映しています。
大宰府 ~多くの歌が大宰府で詠まれました
「天平二年(略)
時に、初春の令月にして、気淑く風和み、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。
(略)何を以ちてか情をのべむ。詩に落梅の篇をしるせり。古と今とそれ何ぞ異ならむ。…」
上記は「令和」の典拠となった歌の一説で、大伴旅人が自邸で開いた“梅花の宴”に合わせて作られたそうです。
この歌ゆかりの坂本八幡宮(福岡圏大宰府市)には5月以降来訪者が増え、経済効果が約10億円に上ったとか。
他にも大宰府で詠われた歌は320首もあるといわれ、特に、大伴旅人と山上憶良 が有名です。
山上憶良の「貧窮問答歌」という生活歌は同時代人の中でも珍しかったのですが、長く継承されませんでした。
また、有名な「あをによし奈良のみやこは咲く花のにほふがごとく今盛りなり」は奈良で歌われたのではなく、
大宰府で 故郷を想って作られた歌だそうです。
万葉集の旅 草枕・・・
大和・・春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣乾したり 天の香具山(持統天皇)
東国・・田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける(山部赤人)
近江・・淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麿)
紀州・・若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る(山部赤人)
筑紫・・春されば まづ咲く宿の 梅の花 独り見つつや 春日暮さむ(山上憶良)
越中・・物部の 八十少女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花(大伴家持)
万葉集時代の貴族の生活
1300年も昔の飛鳥~奈良時代ですが、その貴族達の 生活はおどろくほど現代に似ています。
卓子というテーブルで事務作業や食事を行い、椅子やベッドも使っていました。
部屋は帳というカーテンで仕切られ、有名な“すだれ動かし(注1)”のすだれも竹製ではなくビーズなどを使った玉簾とよばれるもの。
仏教は伝来していましたが、太古以来の肉食もありましたし、チーズやバター、クリームもありました。
また、男性の服装は詰襟の上着にズボンをはき、腰にしめたバンドにはサーベルのような太刀。
女性は筒袖で 丈の短いブラウスに似た上着にフレアーなロングスカートでショールやストールもあったそうです。
なんとなく想像出来ますよね!
(注1)君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く(額田王)
大伴家持(おおともの やかもち)
万葉集の編集者とされている大伴家持は、大伴旅人の跡取りとして学問・教養を早くからしっかり学んでいました。
29歳の時に越中守として現在の富山県高岡市へ赴任し、5年間滞在しました。
その頃、仲間を集っては宴をひらき歌を詠んでいたため、越中歌壇と言われました。
万葉集4516首のうち、大伴家持の歌は473首、うち220首が越中で詠まれています。
万葉集の最後の歌は、この大伴家持が因幡守のときに詠んだ歌です。
「新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいや重け吉事」
七夕伝説
年に1度、7月7日の夜だけに会うことが出来るという織姫と彦星の七夕伝説。
飛鳥朝の持統天皇のころ遣唐使船によって古代中国から伝えられ、万葉集にもおさめられています。
ロマンティックでめずらしいお話に当時の人はバレンタインデーのように喜んだかもしれませんね。。
「彦星と織女とこよひ逢ふ天の河門に波立つなゆめ」
出典:「万葉集」佐々木信綱編、「私の万葉集」杉本苑子、「万葉集を旅しよう」大庭みな子、いらすとん、Wikipedia
作成:株式会社ワイドソフトデザイン_akiko
2019年7月号(アップUP通信)+(セキュリティ通信)